2005年度 
「伝え合う」を求めて〜コミュニケーションの取り方再考〜
倉持親優(発達協会/言語聴覚士)

4月号 「充実した生活」を

 親御さんとのコミュニケーションでの「すれ違いシリーズ」(と勝手にシリーズ化してしまいましたが)第三弾。今回は「充実した生活」についてです。
 親御さんと子どもの将来について話をしていると、就職のこと、親亡き後のことなどの後、必ずと言っていいほどに出てくる話題は「子どもが充実した生活を送れるようになってほしい」ということです。この話題で、「我が子には充実した生活は必要ない」と正面切って反論する人はいないと思いますが、「充実した生活」の内容は様々で、そのイメージの違いから、こちらの意図が伝わりにくいと感じることがあります。

■ T君のお母さんの場合

 T君は社会人一年生。地域の親の会の作業所に通っています。ことばはないのですが、幼い頃から家事手伝いを始め作業的なことが好きで、お母さんも熱心に教えていったので、就学前から包丁を使ってキュウリを切るなど、年齢的に見て平均以上の作業ができるようになっていました。
 学校時代も、他の授業はそれほどではなくても、作業実習の時だけは活き活きと動き回り、現場実習ではいつも最高の評価をもらっていました。本人も働くことを誇りに思っているようで、職場で働く人の様子をよく見ていて、その人のまねをしていることがしばしばありました。しかし普段の生活はというと、人の物を勝手に持ち出して使う、非常ボタンを押してしまう、他人の家に勝手にあがりこむなどのいたずらが多く、親や先生から注意を受けない日はないというくらいの問題児で、学校での評価はそれほど高くはありませんでした。そんなT君なので、作業能力だけを見れば一般企業への就職も可能だと思われましたが、結局受け入れてくれる企業が見つからず、現在の作業所に入ることになりました。
 四月当初は、働けるということで、本人も張り切って仕事に没頭していたのですが、だんだんとまわりの人の様子が気になり、仕事に集中することが少なくなってきました。ちょっと手を動かしては、あたりをフラフラ歩き回り、関係のない部材を触って注意されるなど、最初の頃の意気込みが見られなくなってきました。
 さらに、それまで仕事が終わるとまっすぐに帰宅して家事を手伝っていたのが、夕食にようやく間に合うかどうかという時間に帰ってきて、食べて、お風呂に入って後は寝るだけということが多くなりました。親御さんが心配して調べてみたところ、帰宅途中でお店を覗いていたり、駅で電車を見たりしていることがわかりました。しかし、とくに悪いことをしているわけでもないため、気晴らしも必要だと思い、夕食の時間までには帰ることを約束して、それが守られていれば止めさせることは考えなかったようです。また、外で仕事をしているのだから、家に帰ってきてまで仕事をさせなくてもよいと考えて、家事をしないことについてもとくに注意することはありませんでした。このような状況がしばらく続いていたようです。
 お盆休みが過ぎた頃、T君が帰宅途中に立ち寄ったお店の商品を盗んだということで、相談の連絡が入りました。お母さんと話をして、これまでの状況もわかりました。話をしていく中で、「T君にとって生活が充実したものになっていないのではないか」という結論となり、お母さんも「生活の仕方をもう一度考えてみます」と言って帰っていきました。これでT君の生活も改善されていくだろうと思っていた矢先に、今度は夜間徘徊していて、女の人から不審者と間違われ、警察のご厄介になったということがあり、再びお母さんが相談に来ました。前回の相談後の様子を聞いていく中で、私の考えていた「充実した生活」と、お母さんの考えていた内容が、異なっていたことがわかりました。

■ 充実感

 人は様々な場面で、充実感を持ちます。共通のものもあれば、個人的なものもあります。「どのような時に充実感を持ちますか」とアンケートをとれば、いろいろな答えが返ってくると思います。たとえば、大きな仕事をやり終えた時。優勝を目指して練習している時。今の季節では志望校に合格した時という答えもあると思います。しかし、これらは、イベント的な充実感と言えるものです。このような充実感を持つことも大切ですが、日常的に毎日感じることは難しいものです。
 毎日は難しくても、頻繁に感じることができるものとしてはどのようなものがあるでしょうか。趣味に没頭している時というのが比較的多いのではないかと思います。ただ注意したいのは、「趣味=楽しいこと」ではないということです。これを間違えると、「楽しければすべてよし」というすれ違いが起きてくる可能性があります。楽しいことがよくないと言っているのではありませんが、趣味だけで生活できるわけでもありません。趣味を生活の中にどのように取り入れていくのかが問題です。

 T君の話に戻ります。最初の相談の後、お母さんは充実感を持たせようと、T君に「嫌なら無理に作業所に行かなくてもかまわない。お小遣いを渡すから好きな物を買って、好きな所に行って来なさい」と、彼に好きなことをさせるようにしてきたというのです。最初はお金をもらって、あちらこちらと出歩いていたようですが、そのうち勝手にお金を持ち出して夜中まで帰って来なくなってきたと言います。お母さんは、彼が何をしたいのかわからないので、お手上げといった状態でした。
 私の言いたかった充実感というのは、「彼にもっと手ごたえのある、やりがいのある仕事をさせてもらえないか」ということだったのですが。

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  *参加費には、5%の消費税が含まれています。

 

5月号 規則正しい生活

 前回は「充実した生活」について書きましたが、今回も、話題としてよく出てくる「規則正しい生活」について考えてみようと思います。
 最近の子どもは夜更かしになったために、一日の前半(午前中)は頭が眠った状態で、給食を食べた頃から目覚めて、夜がピークになっているという記事が、最近の新聞に載っていました。昔から「早寝早起き」の勧めがあって、そのほうが生体リズムにも合っているとはわかっていても、とくに若い親御さんには、実行することが難しいようです。

■ S君の場合

 S君は年少さん。保育園に入ったばかりのダウン症のお子さんです。最近になってくつを履いて外を歩けるようになったばかりで、毎日お母さんが抱っこして保育園まで連れてきます。朝は苦手で、お母さんから保育士さんにバトンタッチされても、しばらくはボーっと座り込んでいて、放っておくとそのまま二つ折りになって寝込んでしまうので、周りの人が声をかけたり手をとって動かしたりと、眠らないように注意しています。午前中はそんな感じですが、給食の準備あたりから活発になってきて、お昼寝では逆に眠らず、保育士さんがひとりついて別室で遊んでいる状態です。夕方お迎えに来ても遊びたくてなかなか帰らない毎日です。共働きなので早寝早起きが難しいことはわかりますが、S君のことを考えると、あと一時間くらいは早く布団に入ってほしいと保育士さんたちは嘆いています。

 このようなことはよくあると思いますが、ここで「早寝早起き」を始めとする規則正しい生活の効用について、説明するつもりはありません。これとは逆に「規則正しい生活」を金科玉条のように守りすぎる例を紹介したいと思います。

■ R君の場合

 R君は自閉的な傾向の強い小学校四年生の男の子です。心障学級に在籍していて、教科によって普通学級に通っています。R君のお母さんは、専門書や雑誌を読んだり、講演会を聞きにいったりして、そこで得た知識を担任に伝え指導を話し合うなど、療育熱心な親御さんです。R君は幼い頃から、このお母さんが中心となって育ててきたので、周りの人からしっかりしていると言われています。
 ところが先日参加したスキー合宿で、大きな問題が見つかりました。たとえば、夕食の時間が来てもなかなか食べ始めず、一時間くらいたってようやく食べ始めたり、最終日のお楽しみ会が終わらないうちに、ひとりでさっさと布団に入ってしまったりというようなことです。集団生活の流れにのることが難しいという問題です。報告会の後でお母さんに聞いたところ、幼い頃から「規則正しい生活」を心がけていて、今では時間になると言われなくてもひとりでさっさと動くので、家でとくに困ることはないとのことでした。担任も先日配布した「春休みのしおり」に「規則正しい生活を」と書いておいたので、今さら「規則正しい生活」が問題だとは言い難くなってしまったということです。もちろん、しっかりと話し合ったそうですが。

■ 「規則正しい生活」は善か悪か?

 私たちは、一般論として「規則正しい生活」が良いと親御さんにアドバイスすることが多いですね。自分が規則正しい生活をしていなくても、S君のように子どもが遅くまで起きていたり、朝遅くまで寝ていて朝食も満足にとらずに学校に行っていたりということを聞くと、やはり注意せずにはいられません。
 しかしそれを聞いた親御さんがどのように受け止め、どのように実行するかということまで考えて伝えないと、将来問題となることもありえます。とくに、私たち指導する立場の人からこのようにしたほうが良いと言われた時、一生懸命に実行する親御さんは要注意です。あまり熱心に実行しない親御さんは、「規則正しく」と言ってもそれを厳密に実行する恐れはないので心配は要らないのですが、言われたとおりに忠実に実行する傾向のある親御さんは、「時間や順序などを厳格に守って」生活しすぎる可能性があります。
 その場合、普段は「規則正しく」生活していて問題がなくても、集団生活から外れてしまうことがあります。状況によって周りに合わせて変更できる力も育てておくことが大切ではないでしょうか。将来の姿も視野に入れながら、現在の生活をチェックしていく必要がありますね。
 単純に「規則正しい生活」が良いとか悪いとかの問題ではないと思います。現実の生活で、どの程度妥協できるのかというところで考えていけば良いのではないでしょうか。

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6月号 食事を楽しむ

 「うちの子は、食べることだけが楽しみだから、食べる時まで口うるさく指導したくない」と言う親御さんがいます。「食事は楽しく食べたい」という父親の考えから、食事の指導ができないという母親も多いのではないかと思います。
 「食事を楽しむ」のは当たり前のことですが、その「楽しむ」の中身はどうなのでしょうか。今回も保護者とのことばのすれ違いです。

■ 楽しければよいのか

 最近「食育」ということばをよく耳にします。ちょっと前に「個食」ということばも盛んに言われていましたが、その反省から出てきたことばなのかもしれません。「食べることを通して子どもを育てていこう」という考えですが、その基本にあるのは「みんなと一緒に食事を楽しむ」ことだと思います。しかし、楽しければそれだけでよいのか、という疑問が私にはあります。また、楽しいのは誰か? 本人だけでなく、周りの人も楽しめているかということも、問題になると思います。
 例えば偏食の問題。学生の頃読んだ本の中に、「カフェテリア実験」というものがありました。これは、色々なお料理を並べておいて、子どもがどのお料理をどのくらい食べるかを調べたものです。その結果は、その時の子どもに不足している栄養素を多く含んだお料理を好んで食べていたというもので、人の食行動は自然(本能)にまかせておけば大丈夫というものでした。これを根拠に偏食指導は必要ないという人もいました。しかしこれは、現代の子どもたちには当てはまらなくなっているようです。放っておくと自分の好きなものだけを食べ続けたり、必要のないものも広告や流行から口にしてみたり、ダイエットや健康のためということで、偏った食事をしていることも増えているといいます。子どもの嗜好が親や環境の影響で、かなり偏ってしまっているようです。これも「食育」が問題にしていることのひとつです。
 ハンディのある子は、食行動についても問題が多いですね。嗜好が大きく偏っている、お箸が使いこなせない、マナーが悪いなどなど。そのために、「食事指導」が必要となります。私たちのところへ来る子どもたちにも、食事指導の中で、偏食の矯正、食器の扱い方やお箸の使い方、マナーなどについて、指導をしています。そこで、先の親御さんのような抵抗にあうことがよくあります。
 なぜこのように食事指導をするのかというと、「みんなと食事を楽しむことができるように」するためです。

■ E君の場合

 E君は幼稚園の年長さん。就学を控えて、もう一度身の回りのことをチェックしようということになりましたが、ここで食事の問題が出てきました。幼稚園では、ハンディを持っている子には、無理にお箸を使わせなくてもよいという方針で、E君もスプーンやフォークで当たり前のように食べていました。また、嫌いなものは特に食べさせなくてもよいということもあり、好きなものを選って食べている状態でした。小学校に入れば、給食があるので苦労するのは目に見えています。お母さんも焦って指導を始めましたが、今まで嫌いなものは食べなくても許されていたので、急に食べろといわれても素直に応じるわけではありません。食事のたびに険悪な雰囲気になるので、お父さんが我慢できなくなり、食事指導中止を宣言しました。お母さんからの相談を受けて、お父さんになぜ今食事指導が必要なのか、大きくなった人の例を織り込みながらお話をし、協力してもらうことになりました。もともとできる力を持っていたこともありますが、家族ぐるみの取り組みで、偏食だけではなく、お箸を使うこと、食事のマナーなども順調に身についていきました。
 現在小学校の二年生。給食を残さず全部食べられます。お箸でもこぼさず食べられるようになりました。週末には、家族ぐるみで外食を楽しんでいるとのことです。

■ ハンディがあっても

 お箸が使えないからスプーンやフォークでよい、それも難しければ手掴みでもよいのではないかとアドバイスされることがあります。発達的には、道具を使う以前に手を使う時期があり、その時期に手や口をしっかりと使うことで、道具も上手く使うことができるようになる、といわれています。しかし、私たちのところで育っていった子どもたちを見ていると、必ずしもこの発達の道順でなければならない、というわけではないように思います。むしろ年齢にあった食事の技能を身につけることが将来的には大切で、それは指導の工夫で可能だと思います。みんなと食事を楽しむためには一定のルールが必要です。それがひとりで難しければ他の人の助けを借りるにしろ、マナーに添った技能を身につけることで、みんなの中で楽しく食事をすることができるようになると思います。周りの人の譲歩だけを要求する生活は、いつでも、どこでも、誰にでも受け入れられる、というものではありません。
 今現在、指導することが大変でも、将来みんなの中で楽しく過ごすことができるほうがよいのではないでしょうか。

 「楽しい食事」は、最終目標です。それは簡単に身につくものではありません。身につけるまでは大変ですが、世間で許されている年齢のうちに、食器具の扱いやマナーを教えておくことは大切なことではないでしょうか。

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7月号 「お・しつけ」


 お母さん方と話していると、親がしつけることを避けているのではないかと思うことがあります。どうも「しつける=強制する=ストレスがたまる=心がゆがむ」と考えているようです。これは、学校の先生や施設の指導員と話していても感じることがあります。しかし、どうもそれだけの理由ではないように思います。

■ T君のお母さんの場合

 T君は小学校四年生の男の子。特殊学級に通っています。お母さんは子育てに熱心で、T君を学習の補習塾を始めとして、リトミック、そろばん、和太鼓、体操教室など、様々な習い事に通わせています。これだけいろいろなところに習いに通わせているので、家でのしつけもしっかりやっていると思っていました。
 ところがある日、親御さんたちが集まって話し合いをしていたとき、思いがけない事実に驚かされました。T君は、それぞれ通っている先では先生のいうことを聞いてがんばっているようなのですが、家に帰るとお母さんのいうことは、気が向いたとき以外はほとんど聞かないというのです。例えば、療育の宿題であるお手伝いを家ではほとんどやらせていない、というよりもやらせられない状態だそうです。家での様子を聞いてみたところ、お母さんの方にもどうしてもやらせようという気持ちが弱く、T君がすぐ応じなければ仕方がないとあきらめてしまうことが多いようなのです。
 そのときは他のお母さんから我が家のお手伝い自慢が活発に出たので、そのままになってしまいましたが、気になったので後ほど改めて話を聞いてみました。
 そしてわかったのが、お母さんのしつけに対する自信のなさでした。
 お母さんは、何事に対しても失敗することが恐いので、これが絶対正しいということがはっきりしないと、しつけという価値観の「おしつけ」はできないというのです。たくさんの習い事も、ある信念があって通わせているというのではなく、自分でやる自信がないのでその分野の専門と思われるところに通わせていたというのが実際の理由でした。

■ 家庭のルール作り

 その後T君のお母さんとは、以下のような話をしました。T君が社会で生活をするためには最低限のルールは守れるようにならなければならないこと。集団生活は、自分ひとりで生活をするのとは違って、何でも自分の好きにできるわけではないこと。ルールを身につけていないことによって社会からはじき出されてしまうこともあること。自由というのは何でも好き勝手にできることではなく、ルールという一定の範囲の中で、自分で考えて動くことができることであるなどなど。
 そして、まずは家庭の中で生活の大枠となるルールを作っていくことから始めてもらうことにしました。その大枠の中でなら自分で考え、選んだ生活も自由にできることを教えていくようにしました。
 先のお手伝いについていえば、家族という集団のルールとして、家族がそれぞれ役割分担をして生活していること。T君も役割分担として、お手伝いをすること。家族の中で生活するためには、このルールを守らなければならないこと。これらをいかにT君に伝えていくかを具体的にアドバイスしていきました。
 もちろんことばだけの説明では伝わりませんので、実際にお風呂洗いのお手伝いをしないと好きなビデオが見られないという約束をすること、彼がお風呂を掃除しないときには家族が代わりに洗うことはせず、彼に「お風呂に入れないよ」と文句をいうこと。逆に洗ってくれたときには「ありがとう、助かるよ」とお礼をいうこと、などなど。このような取り組みを続けていくうちに、徐々に自分の果たすべき役割がわかり、やるべきことをすませ、余った時間で好きなことをして過ごすなど、楽しみとともにルールも守れるようになってきました。

 しつけに限らず、子育ての方法について、いろいろな考え方が情報として流れていますので、親御さんがどうしたらよいのか迷ったり、自分のやり方に自信をなくしたりしてしまうということもわかるのですが、私は、しつけは親の価値観の「おしつけ」でよいと考えています。
 できるだけ失敗は少ない方がよいと思いますが、どうしても生活するときに身につけておくことが必要だと思えるルールは、やはり子どもに押しつけていかなくてはならないと思います。それを子どもが受け入れるかどうかはわかりませんが、そこから子どもとの関りが生まれるのだと思います。なぜ受け入れられないのかと考えることで、ルールを考え直すこともできます。また子どもにとっても、社会という集団生活の基本となる自分の自由にならない制約について経験し、学ぶ機会になると思います。
 このように子どもと関っていく中で、親が間違っていたとわかったら、その時点で切り替えていけばよいのではないでしょうか。子育てだけではなく、人生には失敗はつきものです。それを恐れて何もできなくなってしまったら、子どもが将来社会で皆と生活する力が身につけられないと思うのですが、いかがでしょうか。


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